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005 久ヶ原教会
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《久ヶ原教会》(1950年)
出典:RIA建築綜合研究所編『建築家山口文象:人と作品』相模書房、1982年4月
更新、あるいは教会
2010年2月14日
猪熊弦一郎、脇田和らを中心とした美術団体である新制作(派)協会に、戦後間もない1949年、建築部が設立される。
社会生活における人間と芸術の有機的なつながりをつくる、そのために建築家と強い結合が必然的である、という宣言文からは、当時の開放的な気分が伝わる。建築部の設立に協力したのは、戦前より猪熊と交流のあった山口文象。そのきっかけは、戦中に猪熊らが疎開していた相模湖畔での「芸術村(大芸術都市)構想」にあった。アトリエのプランから、ピカソ通り、マティス通りと名づけた通りの名称まで猪熊らが考え、それを全体の地域計画として、山口が図面化したとされる。
戦後、進駐軍から発注される仕事を拒む山口を見兼ね、猪熊は自身の故郷である《高松近代美術館》(1948年)の仕事を紹介する(ちなみに坂倉準三が設計し土方定一が牽引した《神奈川県立近代美術館》(1951年)より、その設立は早い)。戦後における建築家と美術家の共同、そうした関係を象徴するような建築物が見たいと思い、山口と猪熊が共同で設計を行ったといわれるもうひとつの建築物、《久が原教会》(1950年)へ向かった。
外観をみて呆然。当時の設計からは更新されており、その痕跡をたどることは難しい。礼拝後にお邪魔させてもらい、中を見学させてもらう。そもそも教会は神様に手を合わせる場所であり、わたしたちのように、竣工当時の建築物を拝みに来るほうが筋違いである。建築物にとっては手を入れられ、長く使ってもらえるほうが本望だろう。
「モダニズム」の教会は、更新されることで、戦後という過ごしてきた時間を残している。問題はその更新、手(技術)の痕跡をどのように留め、記述するか。更新への意思を提示する行為もまた、デザインと呼ばれうる。建築におけるモダニズムを様式として扱う戸惑いを超えて、そこに戦後の建築物を扱うヒントがあるような気がした。
「山口さんのご自宅も近くですよ。息子さんも教会で、ときどき演奏してくださるんですよ。」そう教えていただいて、近所を歩く。《自邸》(1940年-)のファサードを見ると、煉瓦やモルタルが層になり、幾重にも重なっている。更新、補修を重ねた壁をじろじろと見ていると、奇特な訪問者を待っていたかのように、「クロスクラブ」という演奏会の案内が見つかる。なんだかほっとして、今日はひとまず帰ろうかという話になった。(t)
久ヶ原教会
設計:山口文象、RIA建築綜合研究所
竣工:一九五〇年(一九六二年に改築)
場所:東京都大田区 久が原
山口文象自邸
設計:山口文象
竣工:一九四〇年
場所:東京都大田区 久が原
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