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000 建築ノ虫について
 
前説

 正式に○○の記録、というように名付けることは到底できない、これからいたずらに積み重ねられていくであろう印象記の連続は、ひとりの男からもうひとりの男へと持ちかけられた話から始まっている。辻と呼ばれる話を持ちかけた方の男は、持ちかけられた方の男である齋賀からすれば、不可解としか写らない変な情熱だけを持ち合わせていた。二人は建築という、いくらか斜めに傾いた業界の端っこにしがみつく小虫で、取り柄と言えば、自身が置かれた立場に自覚的なところくらいなものだ。辻は、そんな小虫の四肢がぼろきれに引っ掛かっているような状態を打開するのだ、と顔を真っ赤にして突然いきりたってしまった。このままぶら下がっていて、誰にも聞き取られないほどの鳴き声で気焔を吐いた気になっているのも悪くないな、と心の片隅で思っていたもう一匹も、辻虫のあまりの憤慨っぷりに、それはそれは簡単に感化されてしまった。もののついでに、齋賀虫も調子に乗って(この虫は、何はなくともすぐその気になるのが上手だ)、べらんめぇ調で啖呵を切ってみた。辻虫はいいぞいいぞと合の手をいれる。こいつ、本当は何にも考えてないのかしらん。との考えが互いの頭をよぎるが、勿論忘れることにした。

 話を、これから起こることとしてではなく、既に始まったものとして書いているのは、しっかりと理由のあることで、二匹の活動とも会合とも呼べない、あえて言うなら散歩のような代物は殊勝なことに三度、四度と回数を重ねているのだ。二匹の散歩を何故か早く世に知らしめたい辻虫は、ホームページを作ろう、ホームページを作ろうと念仏のように唱えていた。齋賀虫の方は、毎度、よし分かった、よしやろう、と答えるだけにしていた。ただ、先にも書いたが辻虫には顔を真っ赤にして何だかもの凄い形相を作るという特技がある。あんまり正面から見たくはない。そろそろ限界かな、ということで、いぶかしまれない程度の誠実さをもって、今、まさにことが始まろうとしている。

 散歩と記した二人の道中の目的は、活動の形容のあやふやさとは別に至極真っ当なものである。辻虫の思考回路は、書き上げられつつある前口上とは対称的に、いたって明快そのものの道筋を辿ったのだ。

「近現代に設計された建築であって、現在目にする事が出来るものを、ひとまず小品という括りでもって見て回ること」

が辻虫の設定した目標だった。見て回るという内容は決まったものの、いまだ漠然とした雰囲気が漂っていた。休日を使ってせっせと建築を経巡るのは結構なことだが、それだけでは、なんだか始めにあったはずの憤慨の念はうやむやのままだ。うやむやにしないための、ウェブサイトであったのだ。彼らにすれば印象記、などと謙遜も甚だしいといったところで、二人は訪れた建築を記録し、記述し、一言余計に言い添えたうえに、頼まれもしないのに宣伝することに決めたのだ。だから、このウェブサイトには二人が企画運営するツアー(散歩)に則して同期的に編集されるガイドブックの役割が期待されているのだ。(s)

   
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