theme-photo
text-sketch
reference
menu top
002 同世代の橋
 
建築家の役作り その一

 石井和紘(と彼の作品)を悪いとか、訳が分からないとか言うのには、抵抗がある。それは簡単であるから。「同世代の橋」は彼を含めた同世代十二人と一組の建築家達の作風をそれぞれペチャリと貼付けて、建物のサイドを鉄骨でサンドして橋としての体裁を整えるという建築で、良いと言ってみることの方がよほど勇気のいることなのだ。

 かといって、石井自身が繰り返し宣言した、彼の偽悪的な態度をクローズアップして、個々の作品にはなるたけ触れずに、その真面目な姿勢ばかりをほめ讃えるのは白々しい。

 考える糸口として、彼自身が作品に加えた解説を見てみると、同世代の橋の最初期のスタディでは、建築内部の各室内において、外部との距離感をどう調節するかに心を砕いたという。心を砕くうちに、それぞれの部分が、見覚えのあるものへと変わってゆく。すぐに、彼の同世代建築家達の作品にそれぞれがそっくりだと、気付く。ならば、と一気に飛躍して、その作品群を橋の形の中へと同居させるというアイデアに結実してゆく。あっけらかんとして、内緒がまるでない、真面目すぎるほどの偽悪的態度が、石井の真骨頂だった。

002 同世代の橋002 同世代の橋

 しかし、彼独特の、筋が通っているんだか通っていないんだかにわかには分からない三段跳び論法に眼をくらませてしまっていてはいけない。ひとまずはシンプルに、彼がどんな思考を辿ったのかはさて置き、目的のために、彼がどんな方法を避けたのか、に注目したい。

 彼が嫌ったのは、ガラスの透明度の濃淡を使い分けることで、内外の隔たり/距離感を作り出すことだった。彼に言わせれば、透明感という軽さなどは、時代に合わない。軽さ、とは偽悪と並んで当時の石井のキーワードであったと思うが、彼の言う軽さ、とは透明感のような、物質の性質によるものではなくって、もっと通俗的に、軽妙さ、と言った方が近い意味であった。

 とても小さな事実ではあるが、彼の取捨選択の跡を、良く拾い集めてみることが、石井和紘の建築像を読み込む手かがりとなりそうだ。(s)

1 2 next >

   
menu bottom